看護エピソード

岩手県立病院の看護職員を対象に「ありがとう看護」エピソードを募集しました。応募99作品の中から、優秀賞に選ばれた作品を紹介します。

患者様の家族との再会で・・・

 Mさんは肝細胞癌の末期の患者様でした。
 会社役員をしているその方は、ペインコントロールされて、日中のほとんどはベットの上でパソコンを前に仕事し、末期だと言っても誰も信じないような、数週間の入院生活のあとに、本当に眠るように逝きました。
 いつも朗らかな奥様が傍らで、「寝たきりでも良い。どんな状態でも良いから生きてて欲しいの」と、祈るように、優しい眼差しでつぶやくのを何度も聞いており、Mさんが逝った後の、奥様の様子を心配しました。葬儀の後で病棟に挨拶に来てくださった時には「残された家族で楽しく暮らさないと、主人に怒られるから・・・」と、悲しみの裏側であったとは思いますが、前向きな発言に安心しました。
 それから数年後、Mさんの奥様との再会は、私の異動先の手術室でした。
 大型トラックの後輪に巻き込まれ、引きずられたという交通外傷の緊急手術で、準備が整い入室した患者様が私の苗字を呼びます。Mさんの奥様だと気付くのに時間はかかりませんでした。大型トラックとの外傷であるのに意識は清明だったMさんの奥様Cさんは、「私の足、どうなってる?」と聞きます。
 わずかな筋肉だけでつながってるその状態を私は説明できませんでした。私の表情を読み取ったCさんは狂ったように叫びました。
 「足が無いなら生きてなくて良い」「私を助けないで」
 麻酔が導入され手術が開始されました。切断と止血の手術でした。
 手術後のCさんは、切断された現実を受容できずに鬱状態にあり、リハビリも進まないと病棟スタッフから情報はありましたが、手術室勤務の私がCさんと院内で会うことはほとんどありませんでした。ある日、主治医が、Cさんが私に会いたいと言っていると聞き、どんな話をすれば良いのかためらいながらも会いに行くと、Cさんは「あの時、助けなくって良いって言ったのに・・・」と涙をこぼしました。
 しばらく私も言葉が見つかりませんでしたが「だんなさんが亡くなる前に、いつもいつもどんな状態でも生きてて欲しいって言ってましたよね。私はその気持ちです。息子さんや娘さんも同じ気持ちだと思います」と伝え、一緒に泣きました。
 その後Cさんは、リハビリのために転院した先から、一通のお手紙をくれました。「主人のことを覚えていてくれてありがとう。あの頃の私を覚えていてくれてありがとう。頑張ります!」と書いてありました。

こどもの死

 看護師としてベテランとなっていたある日、上司から小児科病棟への配置換えを言い渡された。私は子供が好きだが、小児科だけは行きたくないと密かに思っていた。 
 理由は、子供の死を受け止める自信が無かったからだった。

 その子は先天性疾患の為、長くは生きられない子だった。
 一時退院をしたが程なく再入院した。私たちは、こわれやすいガラス細工を取り扱うかのように、そっとそっと丁寧に看護した。生きることにだけに全エネルギーを費やしている。そんな気がした。
 やがて最後の時がきた。両親と主治医が見守る中で、呼吸が次第にゆっくりとなっていったときだった。主治医が、「お母さん、母乳をあげなさい。」と言ったのだ。
 感情を出さず、運命を受け入れているかのように見えたお母さんだったが、耐えていた感情があふれたかのように、素早く子供を抱き上げ乳首を含ませた。もちろん吸う力はない。子供を抱いた妻の肩を夫が包み込んだ。
 その呼吸が止まってもしばらくの間、父と母はそのままわが子を抱きみつめていた。
 静かな時がすぎた。
 生まれてから一度も母乳を吸うことが許されなかったその子の顔は、穏やかだった。

 私はそのときの主治医の言葉と、家族の光景を今でも忘れることが出来ない。
 その子がその両親の元に生まれたことは意味があるのだ。短いが確かに家族の中で存在していた命、そして父と母の胸の中で、これからも存在し続けるのだということを教えて頂いた。

 耐えられなかった子供の死が、小児科の看護師としての覚悟に置き換わったときだった。

踊りで見送った死への想い

 看護師人生34年目を迎え、思い起こせば本当に多くの患者さんの病気と直面して、人生最後の看取り場面にも遭遇してきました。特にも、秋祭りの時期になると私の看護観の基本となった80歳の男性の受持ち患者さんを思い出します。
 癌の末期で呼吸もぜいぜいと悪化している状態でした。
 病院の外は祭りのにぎやかな太鼓や笛の音が響き、病人にとって苦しみの中で聞くお囃子も騒音になりかねないと思い、窓を閉めようとした時、かすかな声で「まづりだなあ。みてなあ。」とつぶやきました。奥さんから「さんさ踊りが大好きで踊って歩いた人だから太鼓の音聞くとじっとしていられねの。」と若い頃からの話を伺った時、私はとっさに病室で「お祭するよ!ダンコンダグスコダンガトカット、ダンコンダグスコダンガドカットダンガトカット・・」と太鼓を口拍子で歌いながら踊りだしました。患者さんもぎこちない手で拍子をとりながら、うなずきとあえぎの中にも笑顔で見ていました。病室で舞うことの不謹慎さを思ってみたものの、ただ患者さんの人生の中で生きがいとしてきたさんさ踊りへの想いに添ってあげたいというだけでした。「いがった、ありがと。」と涙ぐみ、奥さんは「よかったね、よかったね。」と患者さんの手をさすっている姿をみて、看護師の行動としてはどうだったかなと思ったのですが、患者さんに寄り添うことは患者さんの人生に寄り添うことであり、心に秘めている声を聞き出し、お互いが共感できたとき信頼関係が生まれると感じた瞬間でした。
 翌日、奥さんから「いい旅たちができました。」と言われて「よかったんだ。」と安堵したと同時に、このことから患者さんの想いを聴くことが看護観の一ページになったことに感謝しています。

心の声を聴くこと

「気がついたら、私は病院のベッドの上だった。自分の手足すら自由に動かせず、毎日ひたすら天井を端から端まで見つめている、そんな絶望的な状況の中で、ただあなた方の声だけが私の生きる希望だった。」 
 脳幹部の梗塞で倒れ、四肢麻痺の状態で搬送された患者さんが、転院したリハビリセンターから自宅に退院した後に話してくださった言葉である。
 就職して4年目に脳外科病棟で働いていた時に出会った患者さんだ。
 入院後間もなく、意識と麻痺の回復は難しいことが主治医から妻に告げられたが、妻は回復の可能性を信じ献身的に看病を続けていた。ベッドにいる夫に、普段と変わりない言葉で語りかけ、笑顔を絶やさなかった。四肢麻痺の状態は続き、言葉で反応することはできなかったが、目を開き覚醒しているように感じられることもあった。ケアをしながら妻と患者さんが歩んできた人生の様々なエピソードを聴き、たとえ意識が戻らなくても、ここにいる患者さんは家族にとってかけがえのない大切な夫であり父であるということを切ないほど感じた。
 その時一緒にケアをしていた先輩看護師が、「私たち看護師が何かしら昨日と変化しているはずという意識をもって目の前の患者さんを見つめなければ、患者の少しの変化も感じることはできないと思う。」と助言してくれた。あたり前のことだが、清拭・口腔ケア・手浴・体位変換等繰り返し行われるケアを、心をこめて声をかけながら行うこと、五感を働かせて患者の反応を感じること、そして何よりも言葉にならない患者の声を聴くことが看護なのだと家族・先輩から学んだ。
 この患者さんが、昨日と少し表情が違う、目が反応しているとわかった時の感動は到底言葉で言い表すことが出来ない。心が震えた。「いつか本当のあなたの声が聴きたい。」そう願っていたからだ。その願いは叶った。看護師として歩んでいる私の大切な宝物である。

ありがとう看護

 生後2ヶ月を迎えようとしていたR君が亡くなったのは、私が小児科病棟の看護師長になり5ヶ月になろうとしていた頃だった。
 R君は染色体異常と心疾患の治療目的で、生後から病児新生児室(ベビー室)に入院していた。レスピレーターを装着し多くのシリンジポンプに囲まれ、今まで誰も経験したことのない非常に重症の児だった。スタッフからは「どうしてこんな重症の子がここにいるのか。もっと大きな病院で治療を受けたほうがいいのではないか」などの声も聞かれた。
 その後R君は徐々に状態が悪化し、母に抱かれ父と姉に見守られ静かに亡くなった。両親はスタッフと共にR君を入浴させ、ベビー服に着替えさせた。いつの間にかベビー室のスタッフ全員が、非番も夜勤も関係なく集まっていた。R君を全員で見送ろうと、この日のために連絡網を自主的に作っていたのだった。全員の看護師が代わる代わるR君を抱っこし、泣きながら声をかけた。
 私はお母さんに「R君からたくさんのことを教えてもらいました。この事を私達一人一人が決して忘れず、次へつなげていきたいと思います。」とお話しした。お母さんは泣きながら「ありがとうございます。Rは短い命だったけど、皆さんにこんなに良くしていただいて幸せだったと思います。」と話してくださった。お父さんも隣で泣きながらうなずいていた。私はこの時の「看護してもらい幸せだった。」という言葉と、後でスタッフが話した「何故、転院しないのかと思ったこともあったが、今は最期までRくんを看る事ができて本当に良かった。」という言葉が忘れられないものとなった。
 私はR君の首に「頑張ったね」とアンパンマンの手作りのメダルをかけてあげた。R君が「頑張ったメダル第1号」となった。
 そして今「頑張ったメダル」は、ボランティアの方々やスタッフが業務の合間に作成し、短期入院の児や日帰り手術の児の退院時にも、首にかけてあげている。笑顔で「ありがとう」と話す子、じっとメダルを見つめる子、恥ずかしそうに下を向く子、入院中の検査や処置、手術などの経験が「痛い」「恐い」で終わらないように「頑張った自分」を認め、自信の持てるかかわりをスタッフと共に大切にしている。

優しいギフトをありがとう

「ありがとう。あなたが一番!」
 10数年前の夕暮れ時、突然、声にならない精一杯の声で、その方は力強く言った。
 口腔内腫瘍の男性。手術で上顎の半分を切除し、更に放射線治療による嗄声・口腔内のただれ・痛みによりほとんど声が出せない状況であった。
 当時、転勤して間もない私は、覚えなければならない仕事が一杯で、システムの違いから小さなミスを指摘されたり、自分の知識の少なさから自信を失いはじめていた時期でもあった。
 そんな時の一言。痛みをこらえて発しただろうかすかに聞こえる言葉。戸惑いをかくせない私に、
「あなたの誠実な対応が一番良い、といつも言っているのよ」
隣の妻がにこやかに通訳する。
「そんなことないですよ」としか言えない私を遮るように、その方は何度も何度も人指し指で「1」を指し示し、手術により変形した顔で力強く訴えてくる。いつもはマスクで隠しているのに、そんなことも忘れているかのように。
 初めての疾患。知識に乏しい私は、これといって何もできずにいた。私が唯一出来たことは、患者さんのそれまで生きてきた環境・背景を尊重し、人生の先輩であることへの敬意を払い接すること。そんな当たり前のこと看護師1年生でもできる。
 それとも自信なさげに落ちこんでいる私を励ますための言葉のギフトだったかもしれない。
 残念ながらその後、その方は優しい家族に見守られながら旅立った。
 残り少ない限られた時間の中で私(これからの看護師達)に何か託そうとしたのだろうか?今となっては、その方の真意を確かめる術はない。しかし、話すことが困難な方の魂の言葉はズッシリと重く心に響いた。今でも、落ちこんだり疲れて電池が切れかけた時に、ふと、その光景と言葉のギフトを思い出し、初心に戻りまた頑張ろう、という気にさせてくれる。
 10数年間の看護人生を支えてくれた最高の言葉のギフト。今度は私が贈る番。
「ありがとう。あなたのギフトが一番!」
 あなたがくれた素敵なギフト、天国に届きますように・・・。